Xリーグで活躍するトップ選手たちは、どんな過程で自らを作り上げてきたのか。IBMビッグブルーの大型SF中谷祥吾(関西大)と、好選手が揃うオービックシーガルズのDBの中で主力として活躍するSF北村優(立命館大)は大学時代からチームの枠を越えて互いをリスペクトしている間柄だ。出身校はもちろん、生い立ちも性格もまったく違う2人が、どんな過程を経てトップDBになったのかを、幼少期からの原体験を振り返ることで探る。今回は北村がおとなしかった幼少期から、バレーボールに打ち込んだ中学時代までを振り返った。
片道1時間の山道を
通学した小学校時代
私が生まれ育った宇治市白川は、山に囲まれた集落でした。小さい頃は恥ずかしがり屋だったこともあり、親の後ろについてまわるインドア派でした。体操教室に通っていたのをおぼろげに覚えています。幼稚園から高校までエレクトーンも習っていました。3歳上の兄もやっていたので、流れでなんとなくはじめました。
兎道小学校のときは学校から一番家が遠く、1時間歩いて学校に通っていました。通学路の宇治川ラインは7割が川の横の道で、あるのは川と道と山のみ。道も崖の上なので、途中でお腹が痛くなったら完全にアウトです(笑)。
家が遠いのと、習い事や塾にも通っていたこともあり、学校の友達と放課後に遊ぶことができなかったので仲の良い友だちは限られていました。スポーツはしていませんでした。友達と遊ぶよりも飼っていた犬のジークの散歩に行っている時間の方が長かったように思います。
今思うと、何かに没頭するということはありました。家のまわりは茶畑しかなかったので、秘密基地作りに没頭したのを覚えています。あとは川に指人形を流してレースをするのにもハマりました。幅が50センチぐらいの川だったので、自分でコースを作るのが楽しかったですね。ゲームにもめちゃくちゃハマっていました。『ロックマン』というアクションゲームが特に好きだったのですが、攻略法を家のパソコンで調べたりしていました。
兄はおとなしかった僕とは対照的にとても明るい性格で、友達も多く生徒会長もしていて、常に人の輪の中心にいました。
小学校6年生の時に立命館宇治中学を受験しました。この時は自分の意志ではありませんでした。結局この時は落ちたのですが、元々自分で行きたいと思ったわけではなかったので悔しいとかはまったく思わず、ただただ『無』の状態でした。

幼少時代の北村(本人提供)
悔しさから自分で工夫して
うまくなったバレーボール
宇治市立宇治中学ではバレーボール部に入りました。中学の時は何か運動部に入るのが当たり前という雰囲気だったことや、兄がバレーボール部だったこともありましたが、小学校の時に何もスポーツをしていなかったので野球やサッカー、バスケットボールなど小学生の時から経験している人が多い競技では勝てないと思っていました。バレーボールは家で兄の練習に数回付き合ったことがあったので、入部したての頃から、他の同級生より少しできるところからスタートできました。
バレーボールにのめり込むきっかけになったのは、3年生の高田先輩への憧れでした。アタックがめちゃくちゃ上手かったのと、少し悪い感じの雰囲気がある先輩で、大人の雰囲気というか、カッコいいな、高田先輩みたいな選手になりたいなと思っていました。
もう一つは、僕がバレーボール部に入ろうと誘った友達が、背が高いという理由だけで試合に出場する機会を得たことがとても悔しかったからでした。
入部してからすくに3年生が2人引退して、1年生から2人補充することになり、その友達と僕が選ばれたのですが、僕より背が高かった友達の方がちやほやされていて、『くそ!』って思っていました。以来、チームの練習はもちろん、家でも廊下に届くか届かないかの高さのところに木の梁があって、そこで時間がある時はひたすらジャンプの練習をしていました。当然、母からは怒られました(笑)。大学時代、垂直飛びは90センチぐらい飛べるようになっていたので、僕のニックネームは『バネ』でした。僕がメインになるコールサインも『バネ』(笑)。この時の家での練習で培われたジャンプ力がフットボール選手としても僕の大きな特徴になりました。壁打ちもひたすらやりました。
また、『ゲームの攻略法も出ているのだからバレーボールも何かヒントがあるのではないか』と思い、家のパソコンで検索してみたら当時はまだ珍しかったと思うのですが、個人の方が運営されているバレーボールの技術を解説しているサイトを見つけて、それを読みながら色々自分で試していました。
他の学校の一つ上の先輩で、ジュニアオリンピックに出場した経験のある選手のプレーをよく観察して真似てみたりもしました。
アタックが打てるようになるまでは数ヶ月かかりました。初めて決まった時の感触と感動は、今でもはっきりと覚えています。
そんな自主練習を続けているうちに、いつのまにか上達していました。うまくなるにつれて周囲が認めてくれて、いわゆる『スクールカースト』の上の方にいる人たちから話かけられるようになり、仲良くなっていきました。3年生になった時にはキャプテンに選ばれました。
チームは地区予選すら勝てないほど弱いチームでしたが、僕は地区の中学生、高校生、大学生が一つのチームを組む選抜に選んでもらえました。
バレーボールはボールをつないでいくスポーツなので、負ける時は誰かの凡ミスが原因になることが多々あります。しかし、初めて自分よりもうまい人たちばかりのチームに入ってプレーしてみると、周囲への信頼というか、より自分のプレーに集中できる感覚を経験しました。この時に、勝つためには勝てる環境、周囲のメンバーの質も重要だと初めて感じました。

中学バレーボール部時代の北村(本人提供)
今振り返ってみると、小、中学校の時にガチガチの強豪チームでスポーツをしてこなかったメリットもあったなと思っています。誰かに強制されることが一切なかったので、自分の中ではスポ根漫画の主人公みたいに、『自分で考えてやるのが当たり前だろ』みたいに思っていました。『こうしたい』、『こうしてみよう』と自由に発想して上達したと実感できた経験が自分の基礎になっていると思います。
幼少期の北村優
・山道を1時間かけて小学校に通った小学校時代
・バレーボールを頑張ろうと思ったのは悔しさから
・のびのびとした環境で自分で上達する方法を考えた
※月刊ハドルマガジン2020年10月号Vol.72掲載記事
現在配信中の月刊ハドルマガジン11月号Vol.73では、IBM中谷祥吾選手の中学・高校時代を掲載しています。
ご購読はこちら
中谷祥吾と北村優が主催するDB講座では、オンラインセッション、DB講座参加者から寄せられた質問に対する回答とDBのグッドプレー映像解説などをまとめたGOOD DB TIMESの配信などを行っています。参加希望者はInstagramのダイレクトメッセージにて、名前、所属チーム、要望、LINE ID(メールアドレス可)を記入の上、参加希望の旨をお知らせください。詳細をご案内させていただきます。また、グーグルフォームからの参加希望も受け付けています。
Instagram
shogonakatani
中谷祥吾・北村優のDB講座参加申し込みフォームはコチラ