Xリーグで活躍するトップ選手たちは、どんな過程で自らを作り上げてきたのか。IBMビッグブルーの大型SF中谷祥吾(関西大)と、好選手が揃うオービックシーガルズのDBの中で主力として活躍するSF北村優(立命館大)は、大学時代からチームの枠を越えて互いをリスペクトしている間柄だ。出身校はもちろん、生い立ちも性格もまったく違う2人が、どんな過程を経てトップDBになったのかを幼少期からの原体験を振り返ることで探る。連載一回目は、中谷が活発だった幼少期の体験を振り返った。
何でもチャレンジする
目立ちたがり屋だった幼少期
子どもの頃は、とにかく元気でした。3歳から習っていた水泳は、上級生に混ざって同じメニューをこなしていて、小学1年生の時に全部のレベルをクリアして小学2年生になる時に選手コースに誘われました。選手コースに入ると大会に出場しなければならないのですが、土日にしていた少年野球や、バスケットボールの方が楽しかったので、選手コースに入ることは断りました。
水泳はそれ以降も続けていたのですが、小学5年生の時に中学生に勝ったことで、何を目指していいのかわからなくなり、辞めてしまいました。今となっては水泳のおかげで体力がついたのでやってよかったな、と思っています。
集中力がついたのは書道です。将来、いろんな場面で文字がきれいであることは有利になるだろうと、両親の勧めで5歳の時から始めました。小学1年生から中学3年生まで習字で賞をもらいました。
あらためて振り返ってみると、何でもやってみたいという欲求が強かったと思います。水泳も書道も親の勧めがきっかけでしたが、何でもやりたいとすぐに言うので、親からすると楽だったと思います(笑)。
一番多かった時は、月曜は習字、火曜は塾、水曜は習字、木曜バスケットボール、金曜は塾に行き、土曜日は囲碁と野球、日曜日は野球という感じです。囲碁は『ヒカルの碁』、バスケットボールは『スラムダンク』に影響されて始めました。塾は仲のいい友達が『行こう』と言ったので入りました。当初は勉強目的ではなかったのですが、国語と算数が好きになり、勉強する楽しさを体験することができました。
友達とも毎日遊んでいました。学校が終わってから習い事に行くまで2時間ぐらいあれば、友達と遊びに行っていました。友達は多い方でした。スポーツが得意な活発な人とも、ゲームなどが好きなインドア派の人とも、いろんなタイプの人と仲良くなることが得意だったと思います。
色々なことをする中で、一番ハマっていたのは幼馴染と一緒に小学2年生から始めた野球でした。
野球かサッカーをやりたいと自分から希望して、近くの少年野球チームとサッカークラブに見学に行き、直感的に野球にしようと決めました。多分、甲子園やプロ野球を見て、かっこいいと思っていたこともあったと思います。父に大阪ドームにプロ野球を観につれていってもらって、すごいなと思った記憶も残っていたのでしょう。
当時は将来「プロ野球選手になる」と、思っていました。夢は持っている子どもでした。というか、夢しか見ていなかった。頭の中では自分が活躍していることをずっと妄想していました(笑)。今となってはめちゃくちゃ恥ずかしいのですが、目立ちたがり屋で主役になりたいという気持ちがとても強かったように思います。
ある時、少年野球の監督に「どんな選手になりたいか?」と、聞かれたのですが、「エースで、四番で、キャプテンになりたいです」と答え、理由を問われて「かっこいいから」と答えたのを覚えています。
結局、エースにも、四番にも、キャプテンにもなれませんでしたが(笑)。きっと『こいつには無理だろう』と思われたのだと思います。もっとふさわしい選手がいました。

少年野球時代の中谷(本人提供)
少年野球で出会った
自主性を尊重する指導
私が住んでいた堺市は少年野球が強い地域で、長曽根ストロングスという全国大会を何度も制覇している絶対王者がいました。私が所属していたチームは弱小だったのですが、4年生の時に同級生のチームメイトのお父さんでもある、西岡直樹さんが監督になってからどんどんチームが強くなり、小学6年生の時には大阪府大会の常連チームになっていました。南大阪地区王座決定戦では準優勝しました。決勝で長曽根ストロングスに負けて悔しい思いをしました。
何故、そんなに短期間に強くなったのかというと、練習はもちろんハードだったのですが、西岡監督が掲げた自主性を重んじる指導方針にあったように思います。
西岡監督は「考えろ」とよく言う監督でした。当時は自主性の意味もよく分かっていませんでした。
「考えろ」と言われても、何を考えればいいのかよくわかりませんでした。自主性というよりも、思うがままにやっていたというのが実際でしたが、自主性を重んじるスポーツ指導に出会ったのは間違いなく少年野球時代でした。3年生までの監督はスパルタだったので、急に方針が変わって戸惑った覚えがあります。それが逆に自分の中では『絶対失敗できない』というプレッシャーになって、バントとかは恐怖心から成功するようになりました。
普通に打ちに行って凡退した時は悔しいな、とか、仕方ないなという気持ちだったのですが、バントは自分の中で決めて当たり前という気持ちがあり、バントのサインが出た時は『失敗できない』という恐怖から、集中力が高まった状態で打席に立っていました。それもあって、スクイズは一度も失敗したことがありません。
西岡監督とは今でも交流があるのですが、「お前はチャンスでは打たないけど、スクイズは決めたな」と、笑っていました。チャンスに打てなかったのは力が入りすぎるタイプだったからだと思います。西岡監督はそれを見抜いてバントのサインを出してくれていたのでしょう。
あらためて考えてみると、与えられた任務は忠実にやりきるという性格的なものが、バントの時にはいい方向に働いていたのではと思います。どんなに忙しくても習い事もサボらなかったですし、一度決めたことはやりきるという気持ちは強かったです。
『エースで四番でキャプテン』を夢見ていましたが、現実はバント職人。理想と現実はかなり違いました。でも、勝てることが楽しくて、まったく気になりませんでした。小学3年生まで負けるのが当たり前だったチームが6年生の時には府大会出場が当たり前になる中で、いつのまにかキャプテンになりたいという気持ちもなくなっていました。小学4〜6年生の時の少年野球での体験が、皆で力をあわせて勝利を勝ち取るチームスポーツの楽しさの本質に気づき始めるきっかけだったと思います。

中谷が少年野球を卒業する時に西岡監督が贈ったメッセージ
幼少期の中谷祥吾
・何でも興味を持ちチャレンジする好奇心旺盛な性格
・一度始めたことは簡単には辞めない
・自主性を重んじるスポーツ指導と出会う
※月刊ハドルマガジン2020年9月号Vol.71掲載記事
現在配信中の月刊ハドルマガジン10月号Vol.72では、北村優選手の幼少期を掲載しています。
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