コラム

Inside Huddle No.3
追悼 『サードダウン・ジョー』よ、永遠に。

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追悼 『サードダウン・ジョー』よ、永遠に。

新年2日に悲しい知らせが届いた。
肺がんと戦いながら指導を続けていた清水国際高校シャークスの上松明監督が永眠した(享年44歳)。

1月8日に清水国際高からほど近いホールで行われたお別れの会には、東西の高校フットボール関係者、日体大時代の同期はもちろん、先輩、後輩1200名近くの参列者が集まり、一時入場規制がかかるほどだった。

告別式と同日、1月9日に行われた東西高校連盟のレセプションでは黙祷が捧げられた。翌10日に行われた東西高校地区別対抗戦ニューイヤーボウル大会プログラムには、神奈川・静岡選抜のヘッドコーチとして、上松監督の名前が記されていた。

「上松のやってきたことを形に残してほしい。特集を組んでもらえないだろうか?」
2013年9月2日、当時アメフット専門誌の編集長をしていた私は、上松監督の日体大同期の方からそんな連絡を受けた。

上松監督が病と戦っていることは、7月の高校特集の取材時に本人から直接聞いていた。

「がんになっちゃって、入院していたんです」

口調は明るかったが、手術ができなかったと聞き、その時はこれ以上、踏み込んではいけないと思った。

同期の方によれば、すでに余命半年の宣告を受けている上松監督に、大学時代のチームメイトたちが集まって「何ができるか」を話し合っている最中に出た案だと説明を受けた。

私は当初、取材することをためらった。聞きにくいことも聞かねばならないからだ。何よりも上松監督のご家族、周囲の方々が記事にすることをどう思うかを心配した。

私は上松監督の同期の方に「取材するとなれば聞きにくいことも聞かねばならない。それでも良いかご本人に確認してほしい」と、伝えた。

上松監督の了解を得たという連絡はすぐに来た。上松監督は覚悟を決めているのだと悟った私も覚悟を決めた。取材に向かったのは9月5日のことだった。上松監督は気丈に応えてくれた。

今でも心の中に残っている言葉がある。

「中途半端な気持ちでは生徒たちは見透かす。だから全力で取り組まなければならないんです」

上松監督は病に侵される以前から、全人格を懸けて生徒を指導してきた。

初めてシャークスの試合を取材したのは、10年ほど前の関東大会だったと記憶している。試合に敗れた後のハドルで、生徒たちに今まで以上の努力をうながしながら、生徒たち以上に悔しがって涙を流す上松監督の姿に「なんと熱いハートを持った指導者なんだ」と、強烈な印象を受けた。

その時の光景は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。

2012年7月にはチームを訪問取材した。
「フットボールを通じて選手に成功体験を与え、自信を持たせる」という指導方針、創部のきっかけ、草創期の苦労など、様々なお話をうかがった。

近年こそ、関東大会、全国大会に出場できるようになったが、部員不足で県大会出場もままならない時代もあった。しかし、上松監督は『こういう状況だからできない』、ではなく、『何ができるのか、どうしたらできるのか』、考えることを生徒たちに教えてきた。

11対11のスクリメージができないなら、左右片方ずつすればいい。スコアリングキックの練習が時間的にできないならば、プレーの練習を徹底的にしてTFPをすべてプレーにすればいい。人数が少なければそれぞれが何人分もの働きができる選手を目指せばいい。

『一騎当千』のスローガンにはそんな意味が込められている。

選手たちに選択肢を与えて判断させ、決めたからにはとことん極めるまで取り組ませる。そんな指導方針に感銘を受けた。

日体大時代は負傷続きでなかなか活躍のチャンスを得られなかった。4年生の夏合宿時にはコーチ陣から事実上の戦力外通告を受けながら、それでも諦めずに練習を続けた結果、先発を予定していた選手の負傷によってチャンスをつかみ、オプション攻撃のTEとして活躍。同校史上初の甲子園ボウル出場に貢献した。

第3ダウンに必ずキャッチしてダウン更新することから、下級生の間では尊敬と親しみを込めて「サードダウン・ジョー」と、呼ばれていた。

 病と戦いながら指導を続ける道を選択した上松監督は、自らの方針を体現して見せた。入退院を繰り返す日々だったが、妻・志津さんが病院まで練習のビデオを届け、メールで選手たちにアドバイスをし続けた。

2014年秋の全国大会で関東地区準決勝まで進出したチームは、精密なプレーと闘志が噛み合った、上松監督の情熱が乗り移ったチームだった。

「20年目にして理想のハートを持ったチームを作ることができた」

関東地区準決勝で早大学院に逆転で敗れた後、上松監督から頂いたメールには、3年生たちが1年生の時からいかに成長したのかが綴られていた。

最後にお会いしたのは、昨春の関東大会だった。すでに車いすでないと動けない状態だった。しかし、試合中はサイドラインに立って、選手たちに指示を続けた。

余命半年の宣告を跳ね飛ばして2年7ヶ月戦い抜き、チーム史上最高成績をおさめて見せた。追い込まれても諦めず、苦しい状況をも糧にした。

上松監督は自らの生き様を最後まで貫いた。

2016年度の清水国際高シャークスは、フットボール経験こそないものの、上松監督と共に顧問を務めて熱心にチームを支えてきた内ヶ島雄吾教諭とOBコーチによる指導体制によって運営される予定だ。

18歳人口が2018年以降減少する『2018年問題』が話題となっているが、高校は一足先に世代人数の減少を迎える。選手の確保という点で、高校フットボール界は厳しい状況に立たされることを危惧する声も関係者の間から聞こえてきている。

しかし、そんな時は決して諦めずに戦った上松監督の姿を思い出そう。

上松明監督のご冥福を心よりお祈りいたします。

ハドルマガジン
上村弘文

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